カタログへ


松尾芭蕉作『笈の小文』

―遺言執行人は何をしたか―


濱 森太郎著


本体価格¥2750+税 '16/12/22刊 ISBN978-4-903866-35-2 C3059   A5版、209頁


笈の小文
         
             目次

口絵                                               1
■最近の関係論文リスト                 7
■前書き                          11

<序章 誰にでも表現したいことがある>
1節、芭蕉は分かりにくい                 1
2節、芭蕉と風羅坊、杜国と万菊丸           10

<第1章     『笈の小文』には第二次編成があった>
3節、『笈の小文』の表現の瑕疵について       20
4節、『笈の小文』吉野巡礼の成立―唱和する杜国―  33
5節、『笈の小文』の記名と小口書き揃え       46
6節、『笈の小文』―須磨明石紀行の成立ー      58
7節、元禄六年七月、史邦来訪            71
8節、『笈の小文』―和歌浦句稿の追加        83

<第2章『笈の小文』は遺贈品として書かれた>
9節、大礒本・雲英本と乙州本            96
10節、書き取りと遺贈               106
11節、「明石夜泊」で描かれたもの               111
12節、首部と結末―幻覚を見る人                129
13節、芭蕉の立ち位置が動いた                     141

<第3章 遺言執行人は肝心な表現を切り捨てた> 
14節、各務支考の模写と偽筆                       151
15節、続各務支考の模写と偽筆                     162
16節、各務支考が補正した『笈の小文』             171
17節、結び                                   185

はしがき                     192
口絵図版リスト                              193
索引                                             194
        


見所:松尾芭蕉作『笈の小文』

         
  これまでの常識に従えば、『笈の小文』は貞享五年(1688)冬に始まる吉野行脚の道中で書いた備忘メモ
を下敷きとし、元禄四年(1691)三月~九月の京都滞在中に現在の形に整理されたものと考えられている。
この時期の『笈の小文』の山場は「吉野巡礼」であり、その実態は同行者坪井杜国の死を悼む追悼文である。
この「吉野巡礼」に改編の手が加えられ、現状の『笈の小文』に再編成されるきっかけは、元禄六年七月に
始まる芭蕉の病臥と閉門にある。当時、江戸の芭蕉庵では結核を患う養子桃印が臨終を迎え、看病・治療費
・薬代とそれらを賄うための宗匠家業の繁忙が芭蕉の健康を虫食んでいた。そこに折り良く、前年、京都御
所の与力を辞職していた医師中村史邦が京都から下ってくる。結核の感染を恐れて暮らしていた芭蕉は、殊
の外喜んで中村史邦を庵室に迎え入れる。さっそく芭蕉の治療に当たった中村史邦の尽力により、芭蕉は同
年十一月にかろうじて本復し執筆活動を再開する。松尾芭蕉には、この医師史邦への報謝の気持ちが強く残
った。
この時『笈の小文』の第二次編成期が始動する。坪井杜国の追福を主題とし、吉野巡礼を山場とする原
『笈の小文』に「風羅坊の所思」「吉野三滝」「和歌浦句稿」「須磨明石紀行」が挿入されて、史邦への
『笈の小文』授与を前提とした主題・構成の改編が始まる。主人公の風羅坊と万菊丸とがさらに経験豊かな
廻国修行者に変貌すると同時に、「風羅坊かく語りき」とでも呼ぶべき、「狂句の聖(ひじり)」の巡礼記が
出現する。そこで示された巡礼記は聖者による所感や観想の形を取らず、直感像叙述による啓示のかたちで
示されている。その動きのある表象は、これを読む者に向かって、生存・文芸・巡礼の本質に関する妥協の
ない自問自答を喚起する力を秘めていた。 もとは松尾忠右衛門宗房、そして今、風羅坊と呼ぶお前はいかな
る者か。お前の生存の拠点たる「狂句」は何処よりきたか。お前の狂句巡礼は、そも何に辿着く旅か。答え
よ。というわけである。
ところがその肝心かなめの問い掛けが喚起される表象部を芭蕉の遺言執行人の各務支考はバッサリと切り
捨て、その改訂に対する自負心を語るのである。

書評:


         
      

カタログへ