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フランス初等教育史


神山榮治著


A5判 807頁(本体6000円) ISBN 978-4-903866-22-2 三重大学出版会 2015.3.10

人間と市民の権利を初めて宣言したフランス。その国の「民衆の小学校」がいかにして作られたかを明らかにした のが本書だ。
フランス初等教育史
         
           <本書の目次>

序章	
第1章 フランス大学の成立と公教育の統轄	 
  はじめに 	
  第1節 フランス大学の宣言	
  第2節 1816年大学分割令とナポレオンの復権 
  第3節 大学改革案とフランス大学の成立	 
  第4節 公教育統轄機関	 
第2章 初等教育基本法の制定	 
  はじめに 	 
  第1節 大学と初等教育制度案	 
  第2節 1816年2月29日初等教育令の成立の経緯 
  第3節 1816年型小学校の組織と性格	  
  第4節 1816年型小学校の改組	 
第3章 初等教育地方行政制度	 
  はじめに 	 
  第1節 初等教育監督・奨励委員会の組織及び権限 
  第2節 小郡初等教育委員会の設置	 
  第3節 小郡委員会及び特別監督員の態度 
  第4節 小郡委員会の改組と課題	 
第4章 国家とイギリス教育方式の導入	 
  はじめに 	 
  第1節 「慈善の友」の民衆教育観	 
  第2節 相互教育方式の仕組みと利点	 
  第3節 国家とパリ基礎教育協会の連携	 
  第4節 国家の奨励と財政支援
第5章 地方都市における相互学校とキリスト教学校 
  はじめに 	 
  第1節 基礎教育奨励協会の発足	 
  第2節 国家による相互学校の強権的設置 
  第3節 相互学校の都市的性格	 
  第4節 教育方式をめぐる国家と教会の闘争
第6章 新型教育修士会と村の学校	 
   はじめに 	 
   第1節 ブルタ-ニュのキリスト教教育修士会 
   第2節 リヨンのマリア修士会
   第3節 ボルド-のマリア修士会	 
   第4節 ストラスブ-ルのキリスト教教理修士会

第7章 初等教員資格制度の成立	 
  はじめに 	 
  第1節 初等教員資格の法制化と一斉施行 
  第2節 初等教員の任用権と3等級免許の抑制 
  第3節 教員資格認定をめぐる国家と教会(I) 
  第4節 教員資格認定をめぐる国家と教会(II)
第8章 1816型小学校体制の樹立	 
  はじめに 	
  第1節 「小さな学校」の実態	 
  第2節 小学校の設置と市町村の義務	 
  第3節 国家の財政的責務	 
  第4節 大学による初等教育の掌握	 
  第5節 大学区における教育方式 
第9章 世俗初等教員養成制度	 
   はじめに 	
   第1節 教員試補制度と師範学校	 
   第2節 ボルド-・マリア会と世俗初等教員の養成 
   第3節 世俗初等教員養成の制度的類型	 
   第4節 相互教育師範学校	 
結章 	 
  引用文献  索引

        


梗概   『フランス教育史1815~1830』

         
 『フランス教育史1815~1830』A5判 上製 810頁 神山榮治著

 民衆教育の基本である初等教育の仕組みが構築される19世紀前半は、帝政、復古王政7月王政の3期
に分けることができる。第1期(帝政)の政策課題の中心にあるのは国家的公教育体制、すなわち大学の樹
立であり、大学の配下に置かれる「民衆の小学校」の制度的創出であった。
1815年、「反大学」世論はボナパルト遺制を弾劾したが、「教育の自由」の名において「国家による教
育」の原則そのものを否定するものではなかった。大学は「フランス大学」として再興し、ルイ18世の
時代に堅固な土台を築いた。
フランス最初の初等教育憲章と目される1816年勅令は、私的、地方的、慈善的率先を奨励し、小学校
を督励する「大学が掌握する装置」としての画一的な制度の樹立を目指した。大学は政府と歩調を合わせ
て憲章の執行に尽力し、所期の装置に権威と実在の威力を与えた。民衆教育は、私人、団体、教会の事業
も含めて大学の傘下に入って行くことになる。
1816年勅令が公布されたとき、パリはイギリス教育方式の導入をめぐって対峙し、議論を戦わせてい
た。自由主義的世論は「子どもが子どもに教える」方式の宣伝・普及に邁進し、国家が加勢した。逼迫し
ている地方都市にとっても、ランカスタ-方式は、王政的秩序と国富に貢献する無二の資材であった。教
会世論はラ・サ-ル方式を服膺する修士会の学校を支援し、対抗した。都市を舞台とする学校戦は、政治
的闘争の恵沢に浴した。
公役務に奉仕する大学の組織的関与はブルジョア的野心の成就に不可欠の「国家の装置」として指導的世
論、特に「分限をわきまえた市民、勤勉な働き者」の育成を望む博愛的世論に受け入れられた。不羈独立
の精神を生命とする修道会も国家のお墨付きによって得られる実益を前にして苦渋の選択を余儀なくさ
れた。
大学は、ラ・サ-ル「大修士」の補完的役割を果たす、村の教師たる「小修士」の養成を目的とする各地
の新型修道会の開設を奨励した。権力に反逆するラムネでさえも、脆弱な財政基盤を補強し、免役の特権
を手にするには、会憲を大学の俎上に乗せ、王の認可を得なければならなかった。
既存の「小さな学校」の1816年型小学校への転換は一朝一夕に成るものではない。公的職責を果たす
新型教師が一斉方式に従って教育する、それが「国家の小学校」の本来の姿形である。子どもは教科ごと
に同一の教科書を用いる。大学が当初から施策の方針を立て実行したのが、伝統的個別教育方式の漸次的
駆逐であり、師範学校はその確実な手段であった。
 National system of popular education の礎石となるのが、公教育史研究の未拓の分野である
復古王政を顕彰する初等教育憲章であったといえる。
      

見所

         
      

書評


         
      

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