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第4回「日本修士論文賞」

       受賞作の要約


「ボランティア概念の誕生〜すりかえられた記号〜」         中山淳雄

 ボランティアにおける現代の問題は、活動よりも体験重視の風潮の中で放置されている「概念」の部分にある。それを明らかにするために言説分析・カテゴリー分析という手法を用いて、「大阪ボランティア協会」の機関誌「月刊ボランティア」の言説を分析した。
 「ボランティア」という言葉が普及してきたのは一九七〇年代前半であったが、それが新規の外来語であったために言葉が意味するところが混乱し、従来の福祉活動という意味での「社会奉仕」として定着することになった。同協会は八〇年代に至るまで「奉仕」「慈善」とは異なる意味を持つと定義し続けたが、一般的な普及は遅れ、行政の福祉政策を補完するためのサービス活動と認識された。実際の活動も福祉施設における高齢者や障害者を対象とするものが主であった。
 しかし七〇年代後半、「施設から地域へ」と活動の場を広げることが主張され、地域のコミュニティ機能を高める役割をも担う活動として認識されるようになると、従来の町内会や自然を守る地域活動も「ボランティア」と見なされるようになった。高齢化と核家族化とが進み、他人の手助けを必要とする人々が増え、あらゆる人々がいずれ誰かの世話になる状況が現れたからである。   八〇年代になると、従来の「施設福祉」に対して「在宅福祉」が活性化することになり、有償サービス団体としての「ボランティア」が注目されることになる。国際交流や自然環境保護、医療支援といった、これまで活動が手薄だった分野で積極的な活動が展開されるようになった。結果として一九八〇年代半ばには、「奉仕」「慈善」的なボランティアが、急激に「自分のための活動」「楽しむ・学ぶための活動」といった奉仕者中心の活動内容を指示するものに変化した。
 この概念変化は、行政の世論調査や辞書の定義、そして先行研究結果とも抵触しない。一九八〇年代後半、「ボランティア」の意義や役割、活動領域が急激に変化したというのが本書の第一の発見となる。「自発性」を揺るがしてきた行政関与には「協働」で応え、「無償性」に抵触する有償サービスも受け入れるようになる。「社会性」からはみ出た学校教育領域での活動も活発化してくる。一九八〇年代半ばがこうした「『ボランティア』概念の歴史的転換期」であったことはこれまで指摘されてこなかったものである。
 次にこのような概念の歴史的転換が起こった理由は、自発性・無償性・社会性といった「理念」と、福祉・国際・環境といった「分野」に区分して考える必要がある。「分野」が転換することで、新しい分野で語られてきたボランティアのあり方が含みこまれるようになり、「理念」の転換を促すからである。このような分野の転換、すなわちボランティアの多分野化こそが「ボランティア」概念の転換を引き起こしたことが第二の発見である。
 第三に、最初一部の先駆的な人々の間で起こった概念の転換はそれが次第に一般化することで活動参加者の増加を促進したという事実は見られなかった。概念の転換によって参加「希望者」が増加し、ボランティアが「組織化」されて、人々の目にみえる形で活動を展開するようになったのである。これが第三の発見である。
 これら三つの発見の結果として、「ボランティア」概念の歴史が現れることになった。唯一固有の言葉であるはずの「ボランティア」の中身が次々に入れ替わる過程が明らかになったのである。本書が言説やカテゴリーに注目するのは、その活性化や増大が実在として起こっているのではなく、概念上の区分が切り替わることによってあたかも変化している「ように見える」現実があるせいである。「ボランティア」という言葉にあわせて様々な活動が書き換えられ、次第に「ボランティア」でなければ表せない活動になっていく、すなわち「言語が思考に先行する」という「ボランティア概念の歴史」の原理の一つが出現したのである。

「王道楽土の悪夢―満州愛国信濃村残留孤児達の家族史」   趙彦民

 A・B・C三家族の一世であるA、B、C氏の内、A氏は小学校の先生をしていた。B氏は中国国営企業の管理職をしていた。C氏はずっと農業に携わっていた。三人は敗戦後の逃避行、中国での残留、文革時代での差別をあじわい、帰ってきた祖国・日本では文化の違い、言葉の壁、職場での差別から生活苦に直面した経緯をオーラル・ヒストリーの手法で再構成したものである。 太平洋戦争の戦況が悪化した一九四五年八月九日、突然、ソ連軍の侵攻が始まった。しかし愛国信濃村にある中和開拓団では、八月九日のソ連参戦を誰も知らなかった。そして、十七日に日本の無条件降伏が伝えられ、団員たちは一気に不安と恐怖に包まれた。しかし、二八日までは異常がなく、大変静かだった。
 二九日の朝、開拓団の平和な生活が破られ、一区付近にある加工場が中国人「暴徒」に襲撃された。その後、現地の中国人も加わった数百名の「暴徒」が一区に対し、家を焼き、武器、物品、家畜の略奪を始めた。その時、二人が殺害され、六人が中和鎮に拉致された。その襲撃を受けていたULさんはその時の光景を次のように記している。
 「御放送」に耳をかたむけて以来、不安な夜昼を送るうちとうとう「南門外の襲撃」となってしまった。あの高くひびくわめき声、ののしり声、そして銃声!!そうしたなかで隊員が二人倒れた。それから数時間のあいだ、私はただ自分の身を隠す事のみに夢中だった。
 翌日、ソ連軍が突然に団の本部に来て、団の武装を解除し、団長らを方正方面に連行した。団の武器を投げ捨てると、それまで土地を奪われ、日本人の支配もとにあった中国人の怒りが爆発した。彼らは開拓団を襲い、教員住宅を放火し、略奪をほしいままにして去っていた。この襲撃で二三人が自決し、ほかにも服毒自殺者を出した。三十一日、再度の襲撃を恐れた避難民は、この日の夕方に指揮者もなく、無統制で「方正」の日本人収容所へ向かった。
 八月三十一日の夕方、七区に集結した約二〇〇〇人の避難民は「方正」へ移動した。だが、途中で二区と六区の約二〇〇人の団員・家族が大集団と離れ、別行動をとり、六区東よりの山奥に入った。「第二の故郷の地で全員潔ぎよく自決しょう」と決めていたのである。九月三日に老人、婦人子供一三〇人が旧日本軍の銃弾よって集団自決をした。この集団のなかにETさんがいた。…… オーラル・ヒストリーの手法で再構成された本書は、中国残留孤児A・B・Cの生い立ちを辿り、襲撃・放浪の後に中国人夫婦の養子となり、就学し結婚して家族を形成した彼らが、その家族を連れて日本に帰国し、困難を克服して生活形成に励む様子を「家族史」として追跡調査したものである。その追跡調査を通じて、次のように結論する。
 AさんまたはB氏が語っているように「日本社会で中国人と言われ、中国社会で日本人と言われ」た。彼らは「祖国喪失者」であり、自ら持つ祖国のイメージに常に裏切られている。太平洋戦争の被害者であったことは、彼らの人生経験を見れば、一目瞭然である。彼らは戦後の混乱した中国社会で残留者同士の絆を形成し、家族を形成し、日本人同士助け合い、相互扶助という「連帯」を形成して生き抜いた。
 著者は彼らの家族形成の努力が戦争に関わるいわば「厳かな物語」として語り継ぐ価値のある事実である事を確認した上で、彼らが日本社会でその努力にふさわしい処遇を受けることを希望して、本書の結びとしている。

 
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